バルセロナの伝説、キニが死去
- Viber(バイバー)
- WhatsApp(ワッツアップ)
- メッセンジャー
- リンクをコピー
FCバルセロナで1980年から1984年にかけて所属したエンリケ・カストロ・‘キニ’が火曜夜、心筋梗塞により死去した。享年68歳。‘キニ’(1949年9月23日、オビエド出身)は見事なゴールを象徴する存在だった。「ブルホ(魔法使い)」、「キニゴール」といった別名があった選手は当時ヨーロッパトップ選手の一人で、エリア内の‘キラー(殺し屋)’だった。クラブ在籍の1年目には誘拐事件を経験するも生還するという経験もしている。
バルサで178試合、5タイトル獲得
スポルティング・ヒホン所属の1年目からスピードがあり、マークし難く、両足と頭いずれも得点力があることを証明していた。アストゥ—リアス州のチームで3度リーガ得点王になったのは単なる偶然ではなかった。
それ以前にも選手の獲得に動いていたバルサは、最終的に1980年に目標を達成する。当時31歳だったがそのプレー効率は所属の4年間衰えることがなかった。バルセロナ所属の1年目となる1981年3月、誘拐事件の被害者となったが最後は身柄を解放された。3ヶ月後にはスポーツ面での正念場を迎える。バルサは国王杯決勝でスポルティングと対戦。キニが12シーズンに渡ってプレーしていた古巣だった。この対戦でそのプロ意識を披露、2ゴールを挙げてバルセロナに勝利をもたらした。
ロス・アスルグラナスのユニホームを着て1980/81季、1981/82季と2度の最多得点、ピチチ賞を獲得、また1982年1月24日のカステジョン戦でバルサのリーガ通算3000ゴールを記録した。レオ・メッシが5000ゴールを決めた際には同4000ゴールを記録したギジェルモ・アモールと3人で記念写真に収まっている。
バルセロナで5つのタイトルを獲得したあとの1984年にスポルティングへ復帰。ゴールゲッターとしてだけではなく人間的にも素晴らしいという記憶を人々に残した。
- Viber(バイバー)
- WhatsApp(ワッツアップ)
- メッセンジャー
- リンクをコピー