FCバルセロナの歴史

FCバルセロナの歴史

監督

FCバルセロナを率いてきた数々の監督を振り返る
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ハンジ・フリック (2024-)

ハンジ・フリックは、2023/24年が終わった時点で、2024年5月29日にFCバルセロナの新監督となった。2021年の秋からチームを率いていたチャビ・エルナンデスの後任となった。フリックはへネス・バイスバイラー、ウド・ラテックについで2020年にバイエルンで六冠を手にした、史上3人目のドイツ人監督だ。

選手として・・・


まさにウド・ラテックがわずか20歳でSVサンドハウゼンから、バイエルン・ミュンヘンに移籍してきた時の最初の監督だった。バイエルンに移籍してから、ブンデスリーガにてフリックは 100試合以上参戦し、4年連続でタイトルを制覇し、1987年には欧州杯の決勝でも参戦したが、ポルトを前に黒星を喫した。

選手としてのキャリアは比較的短く、バイエルンでプレーした後、1990 年から1992年の間、ケルンでプレー (ブンデスリーガで148試合に出場 )した後、さまざまな負傷により28歳で引退することを余儀なくされた。

チャビ・エルナンデス(2021-2024)

チャビ・エルナンデスは、1980年1月25日、タラサ(スペイン)に生まれた。バルサにおける圧倒的なレジェンドは、2021年の秋、ロナルド・クーマンの解任を受けて、FCバルセロナのベンチにやってきた。カタルーニャ出身の彼は、監督として2年半の間に、7回、優勝杯を持ち上げたカタールのアルーサッドを離れ、選手としてほぼ全人生を過ごしたバルサに帰ってきた。

2024年5月29日、クラブはチャビとの契約終了を公に発表し、同日にハンジ・フリックがFCバルセロナの新監督として発表された。 

選手として・・・

チャビは、バルサで767試合プレーし、クラブ史上の公式最多出場ランキング2位であり、その間、25回、優勝杯を制覇している。その内訳は、リーグ優勝8、チャンピオンズリーグ4、国王杯3、クラブワールドカップ2、欧州スーパー杯2、スペインスーパー杯6だ。 

ロナルド・クーマン(2020-2021)

1963年3月21日、ザーンダム (オランダ)にて生まれた ロナルド・クーマンは、2020年の夏、FCバルセロナの監督となった。20年以上の監督としての偉大なキャリアを手にした後、オランダ人は、 2020/21年のシーズン、チームの手綱を執るために、バルサにやってきた。

その前に、クーマンは、フィテッセ、アヤックス、ベンフィカ、PSV、バレンシア、AZアルクマール、フェイエノールト、ソウスハンプトン、エバートン、オランダ代表を率いており、8回、タイトルを制覇している。: アヤックスと共にオランダリーグ2、オランダカップ1、オランダスーパー杯1、ベンフィカと共にポルトガルスーパー杯1、PSVでリーグ優勝、バレンシアで国王杯、AZアルクマールでオランダスーパー杯を手にしている。

バルサの監督としてのロナルド・クーマンの時期は、かなり、困難を伴うものだった。パンデミックによる危機を背景に、クラブは経済危機を抱え、更に 2021/22年のシーズン前に、偉大なスター選手のレオ・メッシがクラブを去ることになった。にもかかわらず、クーマンは、その年に 2021年の国王杯を制覇することができた。その国王杯は、ラヨ、グラナダ、セビージャからの逆転勝利に彩られ、また、アスレティック・クラブを前にした決勝では、 4- 0で勝利する有終の美を飾ることになった。

クーマンは、2021年10月27日まで、チームを率いた。バルサのベンチに座った回数は67試合であり、その内訳は、リーガで48、チャンピオンズリーグで11、国王杯6、スペインスーパー杯2だ。成績は、39勝12分16敗138得点75失点だった。

キケ・セティエン(2020) 

1958年9月27日にサンタンデールに生まれ。キケ・サンティエンは、ラーシング・サンタンデル、ポリ・エヒド、ログロニェス、ルーゴ、ラス・パルマス、ベティスを率いた後、バルサにやってきた。また、ミッドフィルダーとして選手時代をすごし、中でも、2回に分けて、12シーズン在籍したラーシング・デ・サンタンデールでの活躍は目覚しかった。また、アトレティコ・デ・マドリードで3年間プレーし、そこでスペインスーパーハイを制覇し、その後、4年間、ログロニェスで過ごしてからラーシングに戻り、レバンテで選手として引退した。2020年1月14日、エルネスト・バルベルデの後任として、正式にトップチームの監督として発表された。

エルネスト・バルベルデ (2017-2020) 

1964年2月9日、カセレス生まれ。エルネスト・バルベルデは、出身のアスレティック・クラブのほか、エスパニョール、ビジャレアル、バレンシアを指揮し、さらに2度に渡り、オリンピアコスを率いて複数のタイトルを獲得。選手としては、1988/89季と1989/90季の2年に渡りヨハン・クライフ監督が率いていたバルサでプレーしている。2017年、ルイス・エンリケの後任として監督に就任し、公式戦163試合を率いた。監督として、リーガタイトル2回、国王杯、スペインスーパー杯が各1回、計4タイトルを制覇した後、2020年1月13日、FCバルセロナとの契約を終了することで合意した。

ルイス・エンリケ・マルティネス (2014-2017)

1970年5月8日、ヒホン生まれ。ルイス・エンリケは、セルタ・デ・ビゴで率いた後、タタ・マルティノの公認として、2014年5月にバルサのトップチームのベンチにやってきた。バルサを率いた初年度に、3冠(リーグ制覇、国王杯優勝、チャンピオンズリーグ優勝)を果たし、クラブワールドカップ、スペイン国王杯を制覇するなどの成果を見せており、現在までその勢いは止まることを知らない。ルイス・エンリケは、その後、2017年までトップチームを率いて、9タイトル(クラブW杯、チャンピオンズリーグ各1回、スペイン国王杯、リーグ優勝各2回、国王杯3回)を制覇する輝かしい成績を残した。

ヘラルド 'タタ' マルティノ (2013-2014)

ヘラルド 'タタ' マルティノ (2013-)は2013年7月26日からトップチームを率いることになり、Auditori 1899にて、正式に紹介された。ヘラルド 'タタ' マルティノ は、2013年7月26日にFCバルセロナのトップチームを率いることになった。 この日、Auditori 1899にて、正式に就任が発表された。バルサは、既に 2013/14年のシーズンに向けて動いており、新たな治療のために、続投できなくなったティト・ビラノバを引き継いで就任した。

ティト・ビラノバ(2012-2013)

フランセスク・‘ティト’・ビラノバは、1969年9月17日にアンポルダ(ジローナ)で生まれた。5年間、ジョセップ・グアルディオラのもとで第二監督として過ごした後、2012年6月15日にFCバルセロナの第一監督として就任した。選手としては、やはり、マシアで過ごしており、1部ではセルタでプレーしている。

ジョセップ・グアルディオラ (2008-2011)

ジョセップ・グアルディオラ・イ・サラは、1971年1月18日にサンペドルに生まれた。バルサで選手として大成功を収めた後、バルサ・アスレティックの監督として経験を積み、トップチームを率いて1年間に6冠を制覇するに至った。

フランク・ライハールト(2003-2008)

フランクリン・エジムンド・ライハールトは、1962年9月30日にアムステルダム(オランダ)に生まれた。FCバルセロナに、ラドミール・アンティッチの後任として03年の夏にやってきた。バルセロナにいた5シーズンの間、二回のリーグ優勝(05年、06年)、チャンピオンズリーグ(2006年)など、多くのタイトルを制覇した。何よりも、その優美で、コンスタントな彼のスタイルは、多くの人々の敬意を得た。

ラドミール・アンティッチ (2003)

ラドミール・アンティッチは、1948年11月22日、ジチステ(セゴビア)に生まれた。2003年1月にルイス・フアン・ハールの退任を引き継ぎ、後任を務めた。

カルラス・レシャック (1988, 1991, 1996 I 2001-02)

‘ペドラルベス出身の少年’が引退したのは1979年だったが、すぐにFCバルセロナの育成チームを手伝うために、サッカー界へ戻ってきた。

ジョレンツ・セラ・フェレール (2000-01)

ジョレンツ・セラ・フェレールは、1953年3月5日、サ・ポブラ(マジョルカ)に生まれた。フェレールは、2000年の夏にルイス・フアン・ハールがクラブを去った後、バルサにやってきた。

ルイス・フアン・ハール (1997-00 / 2002-03)

ルイス・フアン・ハールは、1951年8月8日に、アムステルダム(オランダ)の旧デ・メア・スタジアムのすぐ側で生まれた。そこで後にサッカーを学ぶことになった。

ボビー・ロブソン (1996-97)

このイギリス人紳士は、ヨハン・クライフの後を引き継ぐという非常に困難な仕事に取り組むべくやってきた。

ヨハン・クライフ (1988-96)

選手として活躍した後、‘やせっぽち’は、1988ー89年のシーズンにFCバルセロナに戻ってきた。今回は、トップチームの監督としての新しい役割を引き受けてきた。2016年3月24日に逝去。 

ルイス・アラゴネス (1987-88)

スペインサッカーの周遊人は、‘オルタレサの知識人’として知られており、スペイン内の多数のクラブチームを率いた。

テリー・ベナブレス (1984-87)

テリー・ベナブレスは、バルセロナに‘やせっぽち’メノッティの後を引き継ぐという厳しい業務を背負ってやってきた。チームと優勝カップを持ち上げることはできなかったが、魅力的でカラフルなサッカースタイルを作り上げた。

セサル・ルイス・メノッティ (1983-84)

クオリティの片りんを見せていたチームにとって、セサル・ルイス・メノッティが来たことは、大きな解決策になるはずだったが、ウド・ラテクの影響下、最大限に活用されることはないまま、終わった。

ホセ・ルイス・ロメロ (1983)

ウド・ラテクがトップチーム監督として解任された後、その後任を任されたのが、ホセ・ルイス・ロメロだった。

ウド・ラテク (1981-83)

ウド・ラテクは、バイエルン・ミュンヘン、ボルシア・ネンヘングラドバッハなどで成功をおさめ、多大な信用を手にクラブにやってきた。 

ジョアキム・リフェ (1979-1980)

1979 年4月18日、バルサは国王杯でバレンシアを前に敗退。第二戦の結果は4-0だった。バルサが第一戦を4-1で勝っていただけに、この敗戦はひどく堪える結果になった。

ルシエン・ミュラー (1978-79)

長い間、トップチームの選手としてつとめた後、ミュラーは33歳で引退したが、その11年後にバルセロナに復帰した。

ラウレアーノ・ルイス (1976)

1976年4月に、ヘネス・バイスバイラーがベンチを退いた後、バルセロナの管理委員会は、即座にラウレアーノ・ルイスに後任を任せることを決定した。

ヘネス・バイスバイラー (1975-76)

ボルシア・ネンヘングラドバッハのコーチとして成功を収めたあと、FCバルセロナにやってきた。 

マリヌス・ミチェルズ (1971-75,1976-78)

マリヌス・ミチェルズは、アヤックスで全てを勝ち取り、バルサにやってきた。‘ミスター・マーブル’のニックネームで呼ばれ、バルセロナのロッカールームに厳しい規律を強いて、空気を変えた。最初のシーズン、彼が手にした唯一の成功は、フェアズ・カップでリーズ・ユナイテッドを前に破り、素晴らしい決勝で勝利を収めたことだった。リーグ戦は、コルドバとの対戦に周囲の期待を裏切り破れ、実質、その敗戦により、リーグ優勝を逃すことになった。

ビック・バッキンガム (1969-71)

ビック・バッキンガムは、1969年12月19日にバルセロナにやってきた。バルサと契約のサインをする前、このイギリス人コーチはギリシャリーグで散々な経験をしていた。

ジョセップ・セケル (1969-70)

アリティガスに変わって後任につき、サバデル戦でデビューし、指揮を執った。

サルバドール・アルティガス (1967-69)

サルバドール・アルティガスは、ロケ・オルセンから任務を引き継ぎ、1967‐68年にかけて指揮をとった。

ロケ・オルセン (1965-67)

オルセンは、レアルマドリードの選手だったが、膝に重症を負い、早い時期に引退していた。

ビセンス・サソット (1964-65)

セサル・ロドリゲスが辞任した後、バルセロナのユースを担当していたサソットが後を引き継ぐことになった。

セサル・ロドリゲス (1963-65)

バルサの伝説的ストライカーは、エルチェで現役の選手としてプレーしながら、トップチームを指揮することになった。アリカンテのチームで成功を収めた後は、サラゴサに行くことを決めた。

ジョセップ・ゴンサルボ (1963)

兄弟のゴンサルボIIIは、サンスと共に、バルサの史上最高の中盤を作り上げた。彼は、200試合以上をバルサでプレーしていた。

ラディスラオ・クバラ (1962-63 I 1980)

プレーヤーとしてバルサ史上に残る伝説となったが、監督としては運に恵まれず、短期間しか務めることはなかった。

ルイス・ミロ (1961-62)

ルイス・ミロは、ジャウデットが会長についてからの最初の監督であり、バルサが6-2でバレンシアに負けた後、辞任したクバラの後任となった。

エンリケ・オリサオラ (1961)

エンリケ・オリサオラは、クラブにたった5か月しかいず、監督としては短命だった。1961年1月12日にブロシッチの後任としてやってきた。

リウビサ・ブロシッチ (1960-61)

ブロシッチは、バルセロナで1シーズンも過ごさなかった。60‐61年の最初に来て、ヘスス・ガライ、サルバドール・サドゥルニ、ジョセップ・マリア・フステといった重要なプレーヤーを獲得した。

エンリック・ラバサ (1960)

エンリック・ラバサは、エレニオ・エレラのアシスタントコーチであり、彼の解任後、職をを引き継いだ。

エレニオ・エレラ (1958-60, 1980 I 1980-81)

‘エル・マゴ’(マジシャンの意)として巷に知られていたエレラは、バルセロナに大きな足跡を残した。

ドメニック・バルマニャ (1956-58)

ドメニック・バルマニャは、40年代最初の頃の優れたプレーヤーであり、1942年、クラブにカップ優勝をもたらした。

サンドロ・プッポ (1954-55)

バルサは、ダウシックの後任に最適と考えた。バルセロナに来る前は、トルコの代表監督を務めており、スイスワールドカップでスペインを負かしていた。

フェルディナンド・ダウシック (1950-1954)

義理の兄弟にあたるクバラと共にバルセロナにやってきて、1950年から1954年までの間、トップチームを率いた。

ラモン・ジョレンス (1950)

バルサに生涯をささげ、その愛すべきキャラクターで親しまれた。

エンリケ・フェルナンデス (1947-50)

エンリケ・フェルナンデスは、膝を深い傷を負い、引退した後、47-48年のシーズンにクラブに戻った。

ジョセップ・サミティエル(1944-47)

ジョセップ・サミティエルは、その際立つ才能で選手として貢献しただけでなく、監督としても、1944年に素晴らしいスタートを切ってみせた。

ジョアン・ジョセップ・ノケス(1942-44)

ジョアン・ジョセップ・ノケスは、市民戦争の前後に渡り、バルセロナでプレーした。

ラモン・グスマン(1941-42)

選手として過ごした後、グスマンの監督としてのキャリアは、幸運に恵まれたとは言い難いものであった。

ジョセップ・プラナス(1939-41)

バルサで非常に際立つプレーヤーとして活躍した後、引退し、監督になることを決断した。

パトリック・オ・コネル (1935-37)

このカリスマあふれるアイルランド人の監督は、前年にベティスにリーグ優勝をもたらした後、1934‐35年にバルセロナのクラブにやってきた。

フランツ・プラティコ (1934-35 I 1955-56)

元バルサのGKは、ジャック・デンバイの後をついで、監督になった。

ジェイムス・ベラミー(1929-31)

ジェイムス・ベラミーは、ロマ・フォルンスと共にバルセロナの歴史上、最初のリーグを率いる栄誉に恵まれた。

ロマ・フォルンス(1927-29)

ロマ・フォルンスは、選手として輝かしいキャリアを残した後、トップチームを率いた。

ジャック・デンバイ (1926-27 I 1933-34)

バルセロナを二度、率いたことがある。(1926-1927年及び1933-1934年) 

ラルフ・キルバイ (1925-26)

国際評価の高い監督で、チームをチャンピオンにするために、アルカディ・バラゲルによって契約書にサインされた。

ヘスカ・ポスソニー (1924-25)

唯一、率いたその時期に、バルサが参加したスペインカップとカタルーニャチャンピオンズシップ、両方で優秀した。

W・アルフレッド・スポウサー(1923-24)

イギリス人監督のスポウサーは、1年しかクラブを率いることはなかったが、その成績は非常にイレギュラーなものであった。

ジャック・グリーンウェル(1917-24,1931-33)

カタルーニャに落ち着いたイギリス人コーチであり、バルサの公式の最初のコートとされている。

ビリー・ランビー(1912年)

1912年1月にバルサに移籍した初の外国人選手。イギリス国籍の中盤の選手は、35才のベテランであり、選手兼監督としても務め、国王杯、ピレネーオリエンタルチャンピオンシップを獲得した。

B. ベイレン(1912年)

ビリー・ランビーの後継者として、1912年9月に監督として初めてバルサがイギリスから獲得した。名字がはっきりしていないが(Barren、, Barzon、Baron)、当時、最も多く使用されたのは、Barrenだった。

ジャック・アルダーソン(1912-13年)

1912年12月26日、29日にFCバルセロナは、オークランド・ワンダラーズと親善試合を行なったが、その際の相手のGK、ジャック・アルダーソンをガンペル会長が深く気に入り、選手兼最年少監督(21歳)が誕生した。

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