チャビ: バルサユースから監督へ

チャビ: バルサユースから監督へ

バルサの新監督は、バルサユース出身で監督になった最初のケースではない。クラブ史上8人目となる。

チャビ・エルナンデス はFCバルセロナにおいて、カンテラ、ユース組織からトップチームを率いることになる8人目となる。下記にチャビがたどってきた足跡を残してきた名前をリマインダーとして記そう。

ラモン・ジョレンス (1950)

ジョレンスは、全人生をFCバルセロナで送った。バルサアマチュア(以前のバルサB)でゴールを決め、その後、トップチームでプレーし、さらに監督として、スターを見つけ出す才能を発揮しながら、チームを率いた。中でも、ビオスカ、マンチョンは、最大の発見となった。

その後、 ジョセップ・セゲル(1969-1970)と パコ・ロドリ (1974)が続いたが、あまりにも短い期間だった。セゲルは、バルサのシンク・コパス(五冠)の主軸だった選手は、サルバドール・アルティガスと代わって代理監督となった。一方、エレニオ・エレラのセンターバックは、トップチームの第二監督として、バッキンガム、ミチェルズ、へネス・バイスバイラー、ラウレアノ・ルイスと共に務めたが、決して第一監督にはならなかったが、数試合を一時的に率いた。

ジョアキム・リフェ (1979-1980)

562 試合に参戦したリフェは、コーチスタッフとして戻ってきた。彼は1978/79年から、トーレスとタンデムを組み、チームを率いて、カップウイナーズカップをその年にバーゼルで制覇した。

RIFÉ

カルラス・レシャック (2001-2002)

レシャックは、 FC バルセロナのインファンティル(1959-1962)、フベニル (1962-1965)そして、コムタル (1965-1967)とバルサのユース組織でプレーし、続けて、バルサのスタッフコーチとして大半の時期を過ごした。言うまでもなく、ヨハン・クライフと共に成功を収めた 1988-1996年のドリームチーム でのスタッフコーチだった時期は、第二監督として務めていた。また、同時にルイス・アラゴネス (1987/88)の第二監督としても務め、最終的にFCバルセロナにとって、非常に厳しい時期だった 2001/02年にトップチームの監督として務めた。

REXACH

ジョセップ・グアルディオラ

ペップ・グアルディオラは、ラ・マシアで輝きを放ったのち、トップチームデビューを1990/91年に果たし、あの有名なドリームチームでのクライフスタイルの最高の表現者となった。 

選手としての輝かしいキャリアを終えた後、監督となっても、さらに素晴らしいキャリアを残し、2年間、無冠だったチームにタイトルをもたらすことになった。

全てがグアルディオラの指揮下、変わった。バルサスタイルが美しいパスとポゼッションゲームと共に構築され、数々のゴールが生み出され、世界中がそれに酔いしれた。グアルディオラは、サッカーを文字通り、リニューアルしてみせた。

任期の4年間で、実に14タイトルを手にしーその中には、2回のチャンピオンズリーグ制覇が含まれているークラブ史における黄金期を作った。

ティト・ビラノバ (2012-2013)

今は亡きティト・ビラノバが、バルサに入ったのは15歳の時であり、マシアでグアルディオラやジョルディ・ロウラ、アウレリ・アルティミラなど、のちに共にマネージメントを組むことになる仲間と出会った。とりわけ、グアルディオラとは4年間の栄光の時期を第二監督として支え続けた。

グアルディオラが 2012年に去ってから、ビラノバは、自然な流れで後を継ぎ、バルサはかつてない最高のリーガのシーズンを迎え、大会での勝ち点100点越えを達成した。しかしながら、健康上の理由で、第二監督だったジョルディ・ロウラ (2013)がトップチームを引き継ぐことになり、よって、ユース組織出身でトップチームを率いたリストに新たな名前が加わることになった。 

最後に少なくとも、セルジ・バルジュアン (2021)のケースについても言及しておこう。彼は、 1993 年から2002年まで、左サイドバックとしてバルサのトップチームで活躍していたが、やはり、ユースで育っていた。ロナルド・クーマンが解任され、チャビがやってくるまでの間、トップチームを率いることになり、上記の面々と共に、このリストに名を連ねることになったが、チャビの到着と共に、トップチームの代理監督としての任務を終えた。

Força Barça
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