ジョセップ・リュイス・ヌニェス氏逝去
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FCバルセロナは、22年間 (1978-2000) に渡り、バルサの会長を務め、クラブの近代史の象徴であったジョセップ・リュイス・ヌニェス・イ・クレメンテ氏が、今日、月曜日に87歳で逝去されたことに、心からのお悔やみを申し上げます。
FCバルセロナは、この辛い瞬間を分かち合っているご家族の皆様に、ソシオ、ペニャ(公式サポータークラブ)、クラブや世界のサッカーファンの皆様と共に深く哀悼を捧げます。どうぞ、安らかにお休みください。
ジョセップ・リュイス・ヌニェス・クレメンテ 氏は、クラブ史上、最も長く会長職を務め、その人気は、1978年から2000年までの22年間に渡りました。世界中のサッカー界において、とりわけ、経済面、メディア面で大きな変容を迎える時期と重なり、クラブの決定的な歴史を刻みました。
1931年にバスク地方のバラカルドに生まれ、バルセロナに幼少期に移住したジョセップ・リュイス・ヌニェス氏は、フランコ独裁政権以降、1978年に初めて行われた最初の民主的会長選挙戦から、バルサの歴史に関わることになります。当時、スポーツ界では、無名に等しかった企業家は、強い決意のもと、 ‘Per un Barça triomfant’ (‘勝利するバルサのために’) というスローガンを掲げ、9.537票のフェラン・アリニョ、6.202票のニコラウ・カサウス及びバルセロナファンの中では、有名だっと二人の候補者を抑えて、ソシオから、10.352 票を集め、僅差ながらも勝利を勝ち取ります。
この長い歴史には、当然のことながら浮き沈みがありましたが、 常に、彼が指針にしていたことが二つありました。それは、クラブが遺産を残すに十分な経済力をみつけること、ペニャの現象を刺激すること (1978年には152だったペニャが、 2000年には、145に増加)、そして、二つの分野ー経済面と社会面ーが、スポーツ面でクラブが競争性を増すことで、向上すべきだと考えていました。実際に、ヌニェスが率いてから、クラブは大きく転換し、その規模は、以前は考えらえないものとなりました。最初のシーズン、1978/79年にクラブ予算は、 8億1700万ペセタでしたが、1999/2000年には 175億9400万ペセタ へと膨れ上がりました。
ヌニェス会長は、共に選挙で争ったニコラウ・カサウスやジョセップ・ムソンスを陣営に入れましたが、後に会長時代を通して、副会長として務める大事な人物となりました。
最初に大成功を収めたのは、バーゼルでのウイナーズカップウイナーズ(1979)であり、多大な支援を得て、スイスまで30000人ものファンを連れて行きました。1982年には、再び、優勝を手にして、その同じ年に、スーパースターのディエゴ・マラドーナとの契約サインを行いました。
とはいえ、リーグ優勝のタイトル制覇には、1984-85年まで待つ必要がありました。サッカーでは殆ど勝つことができませんでしたが、他のセクションは、発展を遂げており、また、若いアスリートの宿舎、マシアも創設されました。1982年ワールドカップに向けて、カンプノウが拡大し、ミニスタディが創設され、1984年には、ミュージアムができあがり、1982年に初めて会員が10万人を超えました。
他のスポーツセクションは、成功をもたらしていました。バスケットは、1985年に最初のコンチネンタルトロフィーを手にして、ローラーホッケーは、1978年から 1985年まで、毎年、ヨーロッパチャンピオンを制覇しました。黄金時代を築いたハンドボールについては、言うまでもありませんでした。
その華やかな会長時代は、1986年5月7日に悲報と共に終わりを告げます。ブカレストで行われたセビージャとのヨーロッパ杯の決勝でバルサは敗れます。その負けには、1988年に選手間で起きた悪名高い「ヘスペリアの反乱」も含まれていました。当時のスター選手、ベルナン・シュスターとヌニェスの個人的な確執もありました。
二度目の会長戦を難なく手に入れた後、1989年4月の三度目の選挙戦は、ヌニェスにとって、厳しいものとなりましたが、最終的には、システ・カンブラを堂々と制して、全体の投票の58.2% をおさめ、会長の座につきました。
1989年4月に三度目の選挙で再び、会長職についたジョセップ・リュイス・ヌニェスは、ヨハン・クライフを監督として迎えます。それが素晴らしい結果をもたらし、バルサは4年間連続(1990-1994)でリーグ優勝を果たし、1992年にウェンブリーで初めての欧州杯を制覇します。
ドリームチーム時代は、1996年まで続きました。ヌニェスにとって、最もチームが強かった時代でしたが、1990年代始めに、もう一つの強力なチームACミランを前に、1994年のアテネで、欧州杯で敗れることになります。大きな期待がかかっていましたが、4-0で敗れ、その時代の終わりを告げることになりました。ヨハン・クライフは、1996年にチームを去ります。これはヌニェスの決断であり、最も難しい決定でした。1988年から1996年までの間、ヌニェスは会長として強固な組織を築き、クライフは、監督として、かつてないほどの最強のチームを導くというタンデムを組んでいたのです。
クライフが去り、1996年にドリームチーム時代が終わった後、出て行った監督の方を持つ人々と会長の支持者の間に、亀裂が生まれた時期がありました。ヌニェス会長は、ロブソン、フアンハールなどの監督を迎え、再び、ピッチに成功をもたらし、1997年の選挙戦で、1997年の選挙戦でソシオの大半の支持を受け、ヌニェスは、アンヘル・フェルナンデスを倒し、再び、会長職につきましたが、少数派ながら、1998年にリコールを起こそうとしたように反対派は、存在し続けていました。その1998年11月にクラブの100周年を盛大に祝うための壮大な計画を立てました。クラブは、他の全てのスポーツの促進に力を注ぎ、実際、その100周年の年、全スポーツセクションがリーグ優勝を達成したのです。ヌニェス会長時代は、非常に長く続きましたが、2000年5月にチャンピオンズリーグの準決勝でチームが敗退した後、クラブの遺産、チームの経済価値、ペニャへの支援に力を入れてきたクラブを去ると表明しました。
ジョセップ・リュイス・ヌニェスは、会長として 175ものタイトル (サッカーで30、バスケットで36、ハンドボールで65、ローラーホッケーで 44) を手にしました。
一度、引退してからは、殆ど公の場に姿を現すことはありませんでしたが、2016年にヨハン・クライフが逝去した際に行われた送別式及び 1992年のウェンブリーでの欧州杯25年記念イベントには、姿を見せていました。
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