FCバルセロナの歴史

FCバルセロナの歴史

伝説

FCバルセロナに在籍した伝説的選手の数々
FCバルセロナで制覇した優勝杯とカンプノウで写真撮影を行うシャビ

ジョルディ・アルバ(2012-2023)

サイドバックとして素晴らしいスピードを手にしていたジョルディ・アルバ (1989年3月21日 ホスピタレット・デ・ジョブレガット生)は、10年以上もバルサの左サイドバックのオーナーとして史上最高のバルサに大きな足跡を残した一人となった。

彼のレオ・メッシとのコンビネーションは、FCバルセロナ史上の大きな歴史となった。この二人は数々の攻撃チャンスを生み出し、対戦相手のディフェンダーが歯が立たないシーンが繰り返され、二人の息のあった呼吸が何度となくバルセロナニズムを熱狂させることとなった。バルサで459試合に出場し、27ゴールを決めた。


セルヒオ・ブスケッツ(2008-2023)

セルヒオ・ブスケッツ(Sabadell, 16 de julio de 1988年7月16日 サバデイ生)は、3部の在籍時からたった一年でトップチームと六冠を制覇するに至った。最高のバルサ史上の鍵となるべく必要な全てを手にしていた。

セルヒオは、チャンピオンズリーグ3回、リーガ9回、国王杯7回、スペインスーパー杯7回、欧州スーパー杯3回、クラブW杯3回と32個のタイトルを手にクラブ史上の優勝杯ランキング3位として、クラブを去った。最後のシーズンには、ブスケッツは9回目のリーグ優勝を果たし、クラブ史上最多クラシコ出場、クラシコでの最多勝利の記録と作った。彼が出場した試合数はトータルで722試合であり、クラシコでは48試合出場し、23回勝利をあげた。

ジェラルド・ピケ(2008-2022)

ジェラルド・ピケ (1987年2月2日、バルセロナ生) は、FCバルセロナと自身のアイデンティティを重ねる頭から爪先までFCバルセロナの選手だった。本人自身が言うように、子供の頃から、サッカー選手になりたくはなかった。彼はバルサの選手になりたかったのだ。

彼は世界一のセンターバックの一人であり、強いキャラクターと堅守、技術、足元のでのボールの扱いなど、全てを兼ね備え、ピッケンバウアーの通称で呼ばれた。その全てのクオリティに加え、空中戦に優れ、攻撃参加においても効率的なプレーをみせた。

クラブで669試合に参戦し、数々のタイトルを手にした後、 2022 年11月3日に、「あの少年の夢は叶った」のことばを残して、引退を表明した。

レオ・メッシ(2003-2021)

レオ・メッシ (1987年6月24日、アルゼンチンのロサリオ生) は、サッカーの全歴史における最高峰の選手であり、FCバルセロナでのあらゆる記録を達成した選手だ。リオネル・アンドレス・メッシは、そのキャリアをアルゼンチンのニューウェルズ・オールド・ボーイズで1995年にスタートし、2000年まで在籍し、13歳の時、アルゼンチンからバルセロナまで挑戦しにやってきた。即刻、クラブのインファンティルカテゴリーに入団し、クラブの育成組織、ラ・マシアで成長し、全ての育成カテゴリーを記録的スピードでこなし、トップチームまで登りつめた後も、数々の記録を生み出し、誰もがそれを超えることはできない、真の伝説となった。

幼少から、そのプレービジョン、正確さ、縦横無尽性や次々とマジックを生み出すパワフルで疲れ知らずの左足と共に知られており、それは、現在も向上することはあっても、変わっていない。

毎年、数々の記録を達成しながら、クラブで史上最多タイトルとなる35ものタイトルを獲得し、中でも、2009年の6冠、2015年の3冠は記憶に残るものだ。個人レベル、アルゼンチン代表レベルでも、歴史に残るタイトルを制覇してきたが、FCバルセロナとレオ・メッシの絆は、2021年の夏に終わることになった。

アンドレス・イニエスタ(1996-2018)

イニエスタ (1984年アルバセテ・フエンテアビジャ生) は、バルサのサポーターに最も愛されているクラブを代表する選手の一人だった。バルサファンにとって、常にイニエスタのプレースタイルとチームへの貢献、その謙虚さ、ピッチでのポジティブな姿勢は、愛してやまないものだった。

シャビ・エルナンデス(1998-2015)

シャビは、偉大な指揮者として、チームを去るまで、バルセロニズムの象徴で有り続けた。ルイス・ファンハールの手により、98年からトップチームに在籍し、バルサのユニフォームを着て、最多出場、最多タイトルを制覇した選手として、15年にクラブを去った。

ビクトル・バルデス(2002-2014)

FCバルセロナのトップチームに12年間在籍し、ラマジェッツと共に、バルサ史上、最高のゴールキーパーと考えられている。バルサのユニフォームを身につけて、602試合に参戦した。公式戦535試合に出場し、その失点数は441、サモラ賞を5回受賞した他、2011-12年には、896分間連続無失点という新記録を達成した。

カルラス・プジョル(1999-2014)

FCバルセロナ史上、最も重要な選手の一人と。12歳でバルサの育成カテゴリーに入り、99年にトップチームへの昇格。もともとは、サイドバックだったが、センターバックとしての才能を見いだされ、クラブでもスペイン代表でもプレーすることになった。バルセロニズムの心を揺さぶる行為により、永遠のキャプテンとして愛されている。

サミュエル・エトー(2004-2009)

エトーは、その決してあきらめることのない姿勢から、「不屈のライオン」と呼ばれてきた。5年間の間、チームの主力となり、クラブが獲得したタイトルは、エトーが量産したゴールによる部分が大きい。

アンデルソン・ルイス・デ・ソウサ‘デコ’ (2004-2008)

彼はブラジル生まれだが(サン・ベルナルド 1977年8月27日生)、その名前はポルトガルで知られるようになり、その後、バルサにやってきた。フランク・ライハールトが当時のバルサのコーチだったが、ライハールトはデコがトップチームのバロメーターだと話していた。

ロナウド・デ・アシス・モレイラ‘ロナウディーニョ’(2003-2008)

このブラジル人ストライカーは、ポルト・アレグレ(ブラジル)に1980年に生まれた。彼のクラブで過ごした5年間は、かつてなかった偉大な選手を生み出した瞬間であり、クラブはこの決定力のある選手のおかげで、二度のリーグ優勝及びチャンピオンズリーグを獲得した。 

ビクトル・ボルバ・フェレイラ‘リバウド’ (1997-2002)

リバウド(レシフェ、ブラジル72年生)は、97‐98年の最初にデポルティーボ・デ・ラ・コルーニャと契約を交わし、スペインにやってきた。インテル・デ・ミランに移籍したブラジル人選手、ロナウドの代役をつとめにやってきて、素晴らしいシーズンをカタルーニャで過ごした。

ロナウド・ルイス・ナサリオ(1996-1997)

1976年にリオ・デ・ジャネイロに生まれた。ロナウドは、その傑出した実力においては右に出るものがいない若手有望選手として、96年にPSVアンドホーベンから、バルサに移籍してきた。

ルイス・エンリケ・マルティネス (1996-2004)

通称‘ルチョ’(ヒホン 1970年生)は、FCバルセロナに96年の夏、レアルマドリードで5年間プレーした後、移籍金フリーでやってきた。

ロマリオ・ダ・ソウサ(1993-1995)

1966年にリオ・デ・ジャネイロに生まれる。FCバルセロナに1993年、PSVからやってきた。

ウリスト・ストイチコフ(1990-95, 1996-98)

ウリスト・ストイチコフは、1966年、プロフディフ(ブルガリア)に生まれた。1990年にCSKA ソフィアから、バルサに移籍し、1998年まで在籍した。その間、95‐96年の1年間だけ、イタリアのパルマにレンタル移籍していた。

ジョセップ・グアルディオラ(1990-2001)

'ペップ'グアルディオラは、バルサの育成システムが生み出したもっとも優秀な選手の一人である。

ロナウド・クーマン(1989-1995)

'ティンティン'クーマンは、92年のヨーロッパカップ、ウェンブレイでの決勝でバルサに勝利をもたらすゴールをマークし、バルセロナの歴史に名を刻んだ。

アイトール・ベギリンスタイン‘チキ’(1988-1995)

アイトール・ベギリンスタイン(ギプスコア・オラベリア、1964年生)、通称‘チキ’は、伝説の‘ドリームチーム’におけるもう一人のキープレーヤーだった。

ギジェルモ・アモール(1988-1998)

アモール (アリカンテ・ベニドーム、1967年生)は、ミゲリとレシャックに並んで3番目に出場回数が多く、FCバルセロナの歴史を通して、もっとも重要な選手の一人である。

ミヒャエル・ラウドルップ(1989-1994)

通称'ミチェリーノ'ことラウドルップは、ドリームチームのアーティストだった。創造的なストライカーであり、そのエレガンスなプレイには定評があり、ガウンをまとってプレイしているかのよう、とジョークにされたほどだった。

ホセ・マリ・バケロ(1988-1996)

バケロは、ドリームチーム時代の疲れを知らないミッドフィルだーであり、1991‐92年のヨーロッパカップでカイザースラウテンで決めたそのゴールにより、永遠に記憶に残る選手となった。

アンドニ・スビサレッタ(1986-1994)

スビサレッタ(ビトリア、1961年生)は、FCバルセロナのみならず、スペインサッカー史におけるもっとも偉大なGKの一人だった。

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(1982-1984)

80年代世界最高の選手であり、当時から現在までの歴史上、最も偉大な選手と考えられている。1960年にアルゼンチンのラヌスで生まれた。2020年11月25日、逝去。

フランシスコ・ハビエル・ゴンサレル・ウルッティコエチェア‘ウルッティ’ (1981-1982)

忘れがたきウルッティ(サン・セバスティアン1952-バルセロナ2001)は、クラブ史上、最も偉大なGKの一人であり、1984‐85年の大成功を収めたシーズンのキーマンだった。

ベルナン・シュスター(1980-1988)

素晴らしいクオリティのミッドフィルだーだったベルナン・シュスター(ドイツ、アウグスブルグ、1959年)は、80年代、バルサの強力な助っ人となった。

エンリケ・カストロ‘キニ’(1980-1984)

キニ (オビエド、1949年)は、 その素晴らしいゴールスコアの成績ゆえに‘ブルッホ’(魔法使いの意)と呼ばれた。そのほかにも、‘キノチョ’、‘キニゴール’などの名前でも知られ、当時のヨーロピアンサッカーシーンにおける最高のストライカーとして名をはせた。 

ハンス・クランクル(1978-1980)

クランクル (オーストリア、ビエナ、1953年) は、バルサ史に最高のストライカーの一人として記されているが、また、同時にファンから非常に慕われた選手でもあった。

ヨハン・ニースケンス(1974-1979)

‘ヨハン II’ (オランダ、ヒームスティード 1951年)は、ヨハン・クライフの親しいチームメートであり、1974年にアヤックスからバルセロナに移籍してきた。

ミケル・ベルナルド・ビアンケッティ‘ミゲリ’ (1973-1989)

‘ターザン’ ミゲリ (セウタ 1951年)は、バルサ史上、最も数多くバルサカラーのユニフォームを着た選手 (664試合)であり、もっとも優れたセンターバックの一人でもあった。

ヨハン・クライフ(1973-1978)

クライフ (アムステルダム、オランダ、1947年)は、世界最高の選手であり、当時は世界一だと考えられていた。2016年3月24日、癌と闘病の末、逝去。

ジョアン・マヌエル・アセンシ(1970-1981)

70年代のバルサのもっとも象徴的な選手の一人だった。アセンシ(アリカンテ 1949年)は、非常によく働くミッドフィルだーであり、素晴らしいチームの心肺機能だった。また、シュート能力も高く、両足、ヘディングでゴールを決めた。

アントニ・トーレス(1965-1976)

アントニ・トーレス(バラゲル1943-バルセロナ2003)は、ストッパーだったが、時には右ウイングとしてもプレーした。彼は、いわゆる‘ラインをマークする’選手であり、タフで攻撃的なだけでなく、規律正しく、安定した選手であった。

カルロス・レシャック(1965-1981)

1947年にバルセロナに生まれたチャーリー(‘ペドラルベスボーイ’の名でも知られていた)は、ほぼ全ての人生をバルサで過ごしたといっても、過言ではない。

ジョアキム・リフェ(1964-1976)

'キメット' リフェ (バルセロナ 1942年)は、バルセロナのユニフォームを数多く来た選手の一人であり、通算、535試合に出場した。

サルバドール・サドゥルニ(1961-1976)

サドゥルニ (ラルボス、バイシャ・ペネデス1941年)は、偉大なGKラマジェッツの後継者であり、多くの選手が彼と競っていた。そのうちの一人がレイナだった。 

サンドル・コクシス(1958-1966)

その空中戦の強さから、‘ゴールデン・ヘッド’の異名をとっていた。コクシス(ハンガリー、ブダペスト1929年―バルセロナ1979年)は、1956年当時、既にスター選手としてのポジションを築いていたが、ソビエト連邦の蜂起により、ハンガリーから逃亡した。

エバリスト・デ・マセド(1957-1962)

エバリスト・デ・マセド(ブラジル、リオ・デ・ジャネリロ、1933年生)は、その傑出したゴール能力の高さで、かつてない最高の外国人選手と歌われた。

フェラン・オリベラ

オリベラ (バルセロナ 1936年生)は、クラブ史におけるもっとも偉大なキャプテンの一人であり、バルサのユニフォームを着て数多くの試合(500試合)に参戦した選手でもあった。

エウロヒオ・マティネス

エウロヒオ・マルティネス(パラグアイ、アスンシオン1935年 – カレラ1984年)は、225試合中168ゴールをマークした最高のストライカーの一人だった。 

ルイス・スアレス

ルイス・スアレス(ラ・コルーニャ 1935年)は、スペインサッカーの偉大な師と考えられており、同時に50年代後半のバルサのスター選手の一人でもあったが、彼の最盛期は残念ながら、スアレスがバルサを去った後に訪れたのであった。

シグフリッド・グラシア

グラシア (ガバ1932年 – バルセロナ 2005年)は、クラブへの忠誠心があつい選手であり、ピッチではチームのために自らが進んで犠牲になるプレイスタイルが高い評価を得た。

ラディスラオ・クバラ

バルセロニズムの神話的存在、クバラ(ブダペスト、ハンガリー1927年―バルセロナ2002年)は、FCバルセロナと1950年6月に契約した。クバラはハンガリーから逃亡し、バルセロナまでやってきた。

ジョアン・セガラ

‘偉大なキャプテン’の別称で知られたセガラ(バルセロナ、 1927年 – タラデル、 2008年)は、FCバルセロナ史の中でも、最もカリスマあふれる選手だった。

アントニ・ラマジェッツ

アントニ・ラマジェッツ (バルセロナ 1924年)は、バルサ史上、及びスペインサッカー最高のゴールキーパーだった。

エスタニスラウ・バソラ

バソラ (コロニア・バルス、バルセロナ、1926年)は、スペインサッカー史における最高の右ウイングの一人と考えられている。

ゴンサルボIII

マリア・ゴンサルボ(モジェット・デル・バジェス 1922-バルセロナ 2007年)は、ゴンサロIII(彼の二人の兄弟もFCバルセロナの選手としてプレーしていたため)として知られていた。バルセロナのユニフォームを数多くまとったベストプレーヤーの一人である。

セサル・ロドリゲス

バルサの最も偉大な選手の一人。純粋なセンターFWであり、素晴らしいストライカーだった。その強烈なヘディングシュートで知られていた。セサル(レオン1920年―バルセロナ1995年)は、アルカンタラとサミティエルに次ぐ3番目の得点王であり、1947‐48年には、24試合中27ゴールをマークし、スペインリーグの最多得点王を獲得した。また、1941年から1951年まで7年連続で、クラブ内の最多得点王でもあった。バソラ、セサル、クバラ、モレノ、マンチョンなどによって構成された50年代初期のクラブにおいて、セサルは伝説的な前線の選手となり、チームの鍵となった。

マリアノ・マルティン

‘エリアの憤怒’の名で知られたマリアーノ・マルティン(ドゥエニャス、パレンシア1919-バルセロナ1998年)は、1試合に1ゴール以上の驚くべき率でゴールを決めたベストストライカーの一人だった。

ジョセップ・エスコラ

サッカー界のジェントルマン、エスコラ (バルセロ1914 – バルセロナ1998)は、後からスタートした多くのプレーのラストを飾るFWだった。

マルティ・ベントルラ

バルサ史におけるベストウイングと考えられているベントルラ (バルセロナ 1906年 – メキシコシティ1977年)は、30年代の最も偉大なスター選手の一人だった。

フェレンク・プラッコ

プラッコ (ブダペスト ハンガリー 1898年―サンティアゴ、チリ 1983年)は、1923年に契約し、もう一人の伝説的選手、リカルド・サモラの代理となるべくやってきた。

ビセンス・ピエラ

‘魔法使い’の別名で知られたピエラ (バルセロナ 1903-1960年)は、バルセロナのサンツ地区に生まれ、スペインサッカー史における最高の右ウイングとして名を遺した。

ジョセップ・サミティエル

FCバルセロナの歴史の中でも、最も象徴的な選手であり、また、当時のヨーロッパのベストストライカーと考えられているジョセップ・サミティエル(バルセロナ1902年-バルセロナ1972年)は、バルサを20年代の黄金期へと導いた。

ラモン・トラルバ・ララス

一般的に、‘ラ・ベイヤ’(古いもの、人などを指す)と呼ばれたのは、バルサでの長いキャリア故であった。ラモン・トラルバ (アルディサ サラゴサ1887年 – バルセロナ, 没年不詳)は、15年間の間、在籍し、FCバルセロナに忠実だったことで知られていた。詳細へ

パウリーノ・アルカンタラ

パウリーノ・アルカンタラ(ジョイロ フィリピン1896年 – バルセロナ、1964年)は、357試合中369ゴールをマークしたクラブ史上、最高得点王である。

カルラス・コママラ

カルロス・コママラ (マドリード 1887年 – バルセロナ、1976年) は、ガンペル氏の個人的な友人であり、バルサの攻撃を引き継ぎ、1903年に引退した。カマララは、素晴らしく優秀なストライカーだった。

ジョアン・ガンペル

1899年11月29日にFCバルセロナを創立し、1908年から1925年の間、5回に渡って会長職を務めた。
 
 
 

 

 
 

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