FCバルセロナのワールドカップ:ディエゴ・マラドーナ
主役
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ (1960年ラヌス生)
ワールドカップ
1982年スペイン
歴史
ちょうど今日、36年前にマラドーナがFCバルセロナと正式にサインを交わしたのだった。当時、サッカー界のナンバーワンの座を手にしていたマラドーナは、クラブが直面した中でも、最も複雑な取引の一つを行なうために、バルセロナの街にやってきたのだった。ワールドカップの開幕まで、後9日間と迫っており、バルセロナは、そこで主役となる"エル・ペルーサ"の獲得を具体化 したのだった。選手への関心は、4年前から持っており、その当時、ジョセップ・リュイス・ヌニェス会長が獲得を試みたのだが、監督のルシエン・ミュラーが加入を拒んだのだった。
2年後、再び、試みたが、その際に境界線を引いたのは、1982年のワールドカップまで、アルゼンチンを選手に離れて欲しくないというアルゼンチンサッカー協会だった。そして、最後に大会開幕寸前に、バルサは、その当時の記録となる数字、12億ペセタ(現在の約7億2千万ユーロ)で獲得を決めたのだった。
たったの21歳で、アルゼンチン代表の10番を背負ったマラドーナは、すでに世界レベルのスタートであり、バルセロナへの到着には、大きな期待が高まった。最初の開幕戦、アルゼンチンーベルギー戦 (0-1 )がそこで行われ、カンプノウは、近い将来、新たなホームになる場所だった。バルサが獲得したばかりの選手がリーダーとなり、この大会の優勝候補を目されていたが、結果的に二回戦で敗退を決めた。4つのグループからなっており、一位が準決勝に進むことができた。イタリアとブラジルを前に敗退し、そのイタリアがこの大会での優勝を手にすることになった。
その後、起きたこととは?
マラドーナのFCバルセロナでの冒険は、不運に形取られるものとなった。2シーズン、バルサのトップチームに在籍したが、肝炎に苦しんだほか、足首の重い負傷も患い、カンプノウのサポーターは、アルゼンチンクラックの期待されたクオリティの全てを楽しむことはできなかった。そういった状況にありながらも、国王杯、リーグ優勝、スペインスーパー杯の優勝杯を持ち上げることができた。
到着から二年後、ナポリへ移籍し、そこでサッカー史上最高の選手として、崇められることになった。数年後、「エル・ペルーサ」 は、ひどく健康を害することになり、そこから抜け出すことはできたが、サッカーとは、ベンチから監督として繋がっていくことになった。 2008年には、アルゼンチン代表監督となったが、 2010年ワールドカップで 結果を出す役割が果たせなかったために、役職から離れる状態に陥った。
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